『手紙』東野圭吾
読了後の何ともやり切れないこの想いを言葉で表現するだけの語彙力を持ち合わせていない事を残念に思う。
もし自分ならもっと上手く出来ただろうか、どうにか立ち回れただろうか。出来ていない。もし自分でも、筋書きを知った後でもどうすることも出来ない。
兄弟の話。兄は弟を想うがあまり強盗殺人を犯し、弟はそのせいで生活が一変する。
誰かが間違った事を言っていただろうか、間違った行為があっただろうか。誰も間違った事はしていない。
冒頭の兄の行為こそ法的に間違った行為であるが、それ以外はどれもが正しい、少なくとも自身や家族を慮った結果の想いや行為であり、誰も責められない。
それなのになぜこうもやり切れないのだろう。
いくら世界中でジョン・レノンが聴かれたところで世界は一つにはならない。
程度の差、形の差こそあれど人間は誰しもが自己中心的なのである。
自分のことだけを大事にするエゴがあれば、“相手を思いやる”ということもまたエゴであるのかもしれない。
他者と他者の間でそれぞれ主張する“正しさ”の押し合いにより相対的な“正しさ”を形成し絶妙なバランスで成り立つのが社会であり、その社会の中では差別でさえ正当化されてしまう。
正しさと相対するところに在るものは間違いではなく、また別の正しさ。社会は数学の問題とは違い絶対的な“正解”はない。
弟が社会の“正しさ”に押し潰されそうになりながら必死で生活する一方で、兄がただ一人能天気に手紙を書き続けているのはそんな社会とは隔離されている所にいるから。
その期間、兄にとっての正しさは自分自身の正しさただ一つ。そこには疑問も葛藤も生じ得ない。
突如突きつけられた弟からの“正しさ”。兄はどのような気持ちで受け止めたのだろうか。ラストシーンは心を打たれる。
東野圭吾氏の作品を読むのは初めてであった。重い内容だったが一気に読んでしまったのは作品に入り込ませるその文章力によるものだろう。
いつまでも本棚に置いておきたい本が1冊増えた。John Lennon氏のImagineを添えて。
手紙 (文春文庫) [ 東野圭吾 ]
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